法然上人について

IMG_2890長承二年(1133)四月七日、現在の岡山県久米郡久米南町にお生まれになりました。幼名は勢至丸。父親は漆間時国といい、その土地の豪族で押領使を務めていました。押領使とは警備司令官のことです。

上人九歳の保延七年(1141)、預所という役職にあった明石源内定明という人物が、不意に漆間家の館に夜討ちをかけたのです。時国はそのときに受けた傷が致命傷となってしまいました。傷は重く、時国は瀕死のまくらべに幼い勢至丸を呼んでこう諭しました。「勢至丸よ、私を襲った敵を恨んではいけない。これは前世からの宿業で起きてしまった事件なのだ。もしお前が敵を恨むようなことがあれば、将来また敵の子孫がお前を恨むというように、恨みがこの世で尽きるということはないだろう。お前は早くそのような世俗の世界を離れて出家し、尊い悟りを求めなさい」

つまり、幼い息子に復讐の断念を勧めたのです。ということは、時国自身、殺生や怨念を否定して真理を求める仏教の深い思想を身につけていたのでしょう。その後の法然上人の宗教的世界への歩みを顧みるとき、すでに幼少時に家庭において仏教的感化を受けていたことが強く感じられます。

勢至丸は菩提寺の観覚得業のもとで勉学に励みますが、早くも非凡な能力と向学心を見せ始めます。――この少年はただものではない。このようなへんぴな地で埋もれさせるわけには行かない。そのように思った師の観覚は、勢至丸を自分がかつて学んだ比叡山に送り、本格的な修行をさせることにしました。天養四年(1145)、上人は懐かしい故郷をあとにして、比叡山北谷の持宝房源光のもとへと旅立ちました。時に十三歳のことでした。

勢至丸は師の源光について仏教の教理や作法を学びましたが、二年後の十五歳のときに、当時比叡山第一の名僧といわれた功徳院皇円のもとに移って本格的に天台宗の教えを学ぶことになりました。しかし、当時の比叡山は俗化し、僧たちも栄達を求めて権力争いを繰り返すという堕落の極みにありました。いかにこの世で苦しむ人々をどうすれば救うことができるかを求める勢至丸にとって、俗化した比叡山の現実には耐え難いものがあったのです。

そこで勢至丸は久安六年(1150)、十八歳のときに皇円のもとを辞し、聖僧のほまれ高い西塔黒谷の慈眼房叡空上人を訪ねて弟子となりました。それからは深い谷間の庵に遁世し、ひたすら求道の毎日を送ることになります。
師の叡空上人は、十八歳の少年の並々ならぬ決意を感じ取り、「少年の身で早くも菩提心(悟りを求める心)を起こした。まことにこれは法爾自然の僧である」とほめたたえ、勢至丸に「法然房源空」という法名を与えました。「法爾」「自然」とは、「あるがままの真理」というほどの意味です。こうして、ここに「法然上人」というお呼び名が始まったのです。法然上人は、四十三歳で山を下りるまでの二十五年間、主に黒谷にあって命がけの求道の生活を送りました。その間、保元元年(1156)には求道祈願のために嵯峨清涼寺に参詣し、また高名な学者たちを訪ね歩いて教えを学びました。

みずからも経蔵にこもり、「一切経」という経典の大全集数千巻を紐解いて何度も読み返しました。しかし、それでも満足することはできず、絶望に追い込まれることもしばしばでした。

そんな法然上人は、周りから「知恵第一の法然房」ともてはやされました。しかし、当人には真理を知りえた実感はなく、とうてい満足することはできませんでした。教えを求める師もなく、納得の行く教えを得ることもできない上人の苦悶の旅は延々と続きます。

しかし、やがて上人の長い苦悩に終止符が打たれる日がやってきます。それは、中国の善導大師の『観経の疏』という書物に説かれている一文を読んだときです。

 一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥の時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に。

「一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を称え、行動しているときも家にいるときも座っているときも寝ているときも、いつでもその仏をひと時も忘れず、捨てないことを本当に正しい行いというのです。なぜならば、それが阿弥陀仏の衆生を救うという誓願による行いだからです」という意味です。それは「念称是一」といって、念ずることは称えることと一致するということを意味します。そのように阿弥陀仏のみ名を称えていれば、必ず誰もが極楽浄土に救い取られるという事を表明した文でした。

上人は、脳裏から暗雲が晴れて輝かしい光が眼前に開かれていく思いを得ました。上人のほほを、感激の涙がとめどなく流れ落ちました。上人は西に向かって合掌し、念仏を称えました。さらに感極まって五体を地に投げ出し、なおも法悦の涙を絞るのでした。「知恵第一」とたたえられた法然上人の三十余年にわたる精進の収穫は、いっさいの知恵学問を捨て去ることでした。そして、ただひたすら念仏を称えれば阿弥陀仏がすべての人を救ってくださることを悟ったのです。承安五年(1175)春、上人四十三歳のときのことでした。

法然上人は、ただひたすら阿弥陀仏を念じてその名号を称えれば、どんな人でも阿弥陀仏によって極楽浄土に救い取られるということを悟りました。具体的には一心に「南無阿弥陀仏」と念仏することで、これを「専修念仏」といいます。

この専修念仏の思想に確信を持った上人は、やがて師の叡空上人にいとまを告げて比叡山を下り、人々にお念仏の信仰を勧めることになります。
法然上人は、あらゆる階級、あらゆる種類の人々と縁を結んで帰依を受け、天皇やその親族、関白や公卿、将軍や武士などから盗賊、遊女に至るまで、あらゆる人々に教えを説き、救いの手を差し伸べたのです。たとえば上人の教えと人柄に傾倒していた関白九条兼実は、あるとき上人の背後に月の光を見て大地にひざまずき、伏し拝んだといわれます。また、鎌倉の北条政子も上人に帰依し、しばしば法を聴聞しましたし、『平家物語』で平敦盛を討ち取ったことで知られる熊谷直実も、上人の弟子となってうるわしい師弟の逸話を残しています。

そのように歴史に名を残すような人々との交流も多く伝えられていますが、上人は決して名利のために彼らと関係を結んだわけではなく、貴賎富貴を問わず、どんな身分の人とでも差別なく交わり、教え導いたといわれています。「真理の前には人間すべて平等」という法然上人の立場は、この時代の人々の共感を得て、その教えは燎原の火のごとく日本中に広まっていきます。しかし、この隆盛が迫害という形をとって上人に迫ってきたのです。

文治二年(1186)の秋、比叡山の天台座主・顕真僧正が法然上人を京都郊外、大原の勝林院に招き、当代の仏教学者たちと「仏法」について論争させたのです。この論争はのちに「大原問答」と呼ばれ、歴史に残る有名な出来事になりました。
従来、仏教は衆生が修行を積み、功徳を積んで悟りに至るものとして考えられていました。しかし、法然上人は衆生の側の努力には限界があるとし、阿弥陀仏を念じれば仏の側が衆生を救い取ってくれると主張しました。問答は一日一夜に及びましたが、上人の堂々とした態度と言葉は満座の学僧たちを心服させたと伝えられています。

こうして、浄土宗は勢いを増して広まっていきましたがそれにつれて、一方では法然上人の教えを誤解し、はき違えるもの、行き過ぎるものなども出てきます。すると、念仏の教えが広まることに危機感を持っている旧仏教側は、ここぞとばかりに浄土宗の攻撃に出てきました。元久元年(1204)、の三千人もの僧が比叡山の大講堂に集まり、念仏停止を決議して訴願におよびました。
法然上人は門弟たちを諫めるため、『七ヶ条起請文』を草して主だった弟子たちの連署をとり、天台座主に提出しました。連署には信空をはじめとして、百八十余名の名前が連ねてありました。

しかし、翌元久元年(1205)には興福寺の宗徒が浄土宗の九つの過失をあげて攻撃し、上人とその弟子たちを罪科に処するように朝廷に強訴しました。このとき提出された奏状を『興福寺奏状』と呼び、現在に残されています。
さらに翌年の建永元年(1206)には、上人の弟子の住蓮と安楽が官女を出家させたとして逮捕され、いよいよ法然上人とその弟子たちに「法難」が襲いかかってくるのです。

この事件を契機として念仏は停止され、やがて法然上人は四国へ流されることになります。上人七十五歳の出来事でした。

建永二年(1207)二月、法然上人の四国の流罪が決まりました。しかも、僧籍を剥奪されて藤井元彦という俗名をつけられての配流です。この出来事は、念仏門下にとって耐えがたい打撃でした。

しかし、たとえ死刑になっても専修念仏の教えを曲げるわけにはいかない、という法然上人の信念は流罪になったことの恨みよりも地方の庶民に念仏信仰を伝えることができる喜びに向いていました。そして、讃岐の地において多くの人々に浄土宗の教えを広め、念仏の信仰者は日を追うごとに増えていったのです。

法然上人が流罪を解かれて京都に帰ったのは、建暦元年(1211)十一月でした。上人はすでに七十九歳になっていました。しかし、老齢に加え長旅の疲れが重なったのか、翌建暦二年(1212)正月を迎え、上人はついに病に伏してしまいました。

法然上人の臨終が近いことを感じ取った弟子たちは、上人亡き後の遺跡について尋ねました。すると、法然上人は、「念仏の声のするところ我が遺跡」と答えました。これは時代を越え、空間を乗り越えて念仏がいつまでも生き続けることを意味しています。

法然上人は、念仏の肝要について一筆したため、遺言として側近の源智に手渡しました。それが有名な『一枚起請文』です。

法然上人は、八十歳の生涯を閉じて安らかに極楽へ帰られました。建暦二年(1212)一月二十五日のことでした。